21:45 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、

 

 21:46 イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

 

祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエス様がお語りになったこのたとえを聞いて、イエス様を捕らえようとしましたが、できませんでした。それは群衆を恐れたからです。群衆はイエス様を預言者だと思っていたからです。

 

つまり、指導者たちではないイスラエル人々は、イエス様に神の権威を認めていたのです。群衆はイエス様に神の権威を認め、その教えに喜んで耳を傾けました。しかし、イスラエルの指導者たちは、「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。」(詩編118:22)と言われているように、イエス様が、「あれは跡取りだという理解を持ちながらも、跡取りだからこそ彼の相続財産を自分たちのものにしよう」と考えて、神のひとり子を十字架につけて殺してしまうのです。

 

ここに、イスラエルというぶどう園を委ねられた指導者たちの罪が浮き彫りとなります。農夫たちは、主人の息子と知らずに、殺してしまったのではありませんでした。農夫たちは、イエス様が主人の息子と知りつつ、主人の息子であるからこそ、殺してしまうのです。彼らはサタンに従うとともに、自らの欲望のために神の御子を殺害してしまうのです。

 

大切な愛する息子を殺されて、黙っている父親はおりません。しかし、彼らがそのような無茶苦茶な理屈を立てることができたのは、彼らが主人がいないかのように考えていたからです。彼らは神に権威を与えられたイスラエルの指導者でありながら、生けるまことの神を信じていないのです。ここにイエス様が指摘しておられる祭司長や律法学者や長老たちの罪があるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、その当時イスラエルの指導者であった祭司長や律法学者や長老たちは、口では神をあがめているように言いながら、実際には神によって遣わされた神の御子であるイエス・キリストを受け入れようとはせず、十字架につけて殺してしまいました。同様の罪を私たちも犯してしまう事を思わされます。あなたの憐みを求めつつ、改めて主に聞き従う者とならせてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。