28:11 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。
28:12 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。
28:14 もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」
28:15 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告しました。祭司長たちもローマの番兵たちの口を通して、墓が空であり、イエス様が復活されたことを聞いたのです。しかし、彼らはイエス様をメシアとして信じませんでした。

神様はイエス様を死から三日目に復活させることによって、この方こそ、約束のメシア、救い主であることを示されたのですが、祭司長たちは信じませんでした。信じないどころか、兵士たちに多額の金を与えて、「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言うように命じたのです。

イエス様の死からの復活は、神様がイスラエルに与えてくださったしるしでした(12:39、40「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」)。

ところが、祭司長たちと長老たちは、ヨナのしるしをなかったことにしようとしたのです。「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」とありますが、マタイによる福音書が記された紀元80年頃には、「イエス様の墓が空っぽであったのは、弟子たちがその死体を盗んだからだ」というデマが広まっていたようです。

お墓には番兵が見張っていて、入り口には大きな石が転がされ、封印がされていて、もしもこの封印が解かれるようなことがあったら番兵たちは死刑になってしまうのです。しかも弟子たちは、イエス様が十字架につけられる頃には恐れてその場から逃げ出し、意気消沈していたのです。とても弟子たちが盗んだとは考えにくいことです。

やがて散らされた弟子たちが、ふたたび一つの群れとなり、イエス・キリストの復活を宣べ伝えるようになったのは、聖書が教えているように、神様がイエス様を栄光の体で復活させられて、弟子たちがそのイエス様とお会いしたからです。私たちが、イエス様が復活されたと信じているのは、復活され、今も活きておられるイエス様が私たちと出会ってくださったからなのです。

目には見えませんけれども、神様が御言葉と聖霊において、私たちの心に触れてくださり、人格的に出会ってくださったのです。そして、私たちに、死からの復活という希望を与えてくださったのです。「死んだら終わりだ。どうせ、死ぬなら、なぜ生きるのか」と空しさの中にあった私たちに、死を越える命、永遠の命をイエス様は十字架と復活によって与えてくださったのです。私たちだけではありません。イエス様は御自分を信じるすべての者たちに、恵みとして、復活の命を与えてくださるのです。

祈り

天の父なる神様、私たちを罪と死の束縛から解放し、十字架において罪を贖い、神との平和をもたらしてくださったイエス・キリストは、事実よみがえられて弟子たちに現れ、神の救いが確かなものであることを教えてくださいました。あなたの恵みを感謝いたします。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。