わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。ローマ書14:7~8
私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(新改訳)
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく」とありますが、生まれながらの人間は、例外なく自分のために生きるという選択をしているのではないでしょうか。パウロが、「私たちの中には」と言っている初代教会のクリスチャンたちも、かつては自分のために生きた来た人たちであろうと思われます。
しかし、そのような人たちが、イエス・キリストとの出会いによって変えられていくのです。私たちの主との出逢いは、私たちの考え方、生き方、人生観・世界観そのものを変革していくのです。
「主のために生き」「主のために死ぬ」という生き方は、この方こそがわたしの主人であるという僕としての生き方に他なりません。
これは、奴隷が主人に従って生きるというあり方を連想させるものですが、「キリストと私」の関係は、人間の主人と奴隷の関係とは違って、希望と将来が約束されているものです。この主人は決して僕を裏切ることはなく、僕のためにご自分の命までも与えて、罪を赦し、あがなってくださるお方だからです。
この主人は、わたしの必要をすべてご存知であって、私を確かないのちの道へと導いてくださる羊飼いなのです。それは詩編の作者が次のように記している通りです。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。」(詩編23:1~3)キリストという主人に従って生きることの中には、平安があり、喜びがあります。
祈り
天の父なる神様、自分のために生きるという生き方から、主のために生きるという生き方へと導かれ、促されている私たちは、あなたがわたしの羊飼いとしてすべてをお導きくださっていることを覚えて感謝いたします。
あなたが、私たちのためにしてくださったこと、今もこれからもしてくださることを覚えながら、なお主のために生きる者とならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。