わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ルカによる福音書24章21節

しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、

 

私たちは自分の思い込みによって、何かに望みを託すことがあります。

主イエスの弟子たちは、主イエスこそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。主イエスに望みをかけたことは間違いではありませんでしたが、救い主メシアは、その当時イスラエルを植民地支配していたローマ帝国から力をもって解放してくださるに違いないと考えていたのです。

 

ところが実際は、主イエスは、捕らえられ、十字架につけられて死んでしまいました。主イエスは、それまでにも、少なくとも3度、自分がやがて捕らえられ、死んで、三日目によみがえるということを予告しておられたのですが、弟子たちはそうした主の言葉を理解することも、信じることも出来ないでいたのです。

 

誰よりも私たちのことをご存知である神様は、私たちが考える方法によってではなく、神の方法によって、私たちにまことの救いをもたらしてくださるということを覚えておく必要があります。

 

失望や抑圧に襲われる時、自分の思うようにことが運ばない時、私たちはそれを、神や人のせいにしようとすることがあります。そうした思いの背後には、「私はそれをすぐに手に入れるべきだ」という思いがあるのではないでしょうか。

 

このときの弟子たちは、期待をかけていた主イエスが死んで、今日は3日目にもなる。という現実の中で、失望と落胆の思いが心を占めていたのです。

折りは、答を求めることではなく、神ご自身を求めることなのです。すべてをご存知であり、すべてをご支配なしたもう神ご自身の御心を求めること、そして神がどのような答えをお与えになるにせよ、信頼して待ち続けることを教えられます。

 

祈り

 

天の父なる神様、弟子たちが、自分の思ったように行かないのを見て失望落胆したように、私たちも同じような思いに捕われてしまうことがあります。そのような時にもあなたに祈り、あなた御自身を求めることが出来ますように。信頼して待ち続けることができますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。