だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。ローマ2:1~3

 

ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。(新改訳)

シュライエルマッハーは、宗教は人間の願望の投影であるといいましたが、偶像礼拝の社会では、神々は人間のために存在しています。ですから、結局のところ人間の欲望によって物事を考えたり行なったりすることになってしまうのです。本来は神が人の主人であり、人を生かしてくださっているのに、人間は神を自分の召使のようにしてしまうのです。

 

自分を正しいと自称して他の人たちを裁いているという実例は、福音書の中では律法学者やファリサイ派の人々のうちに見ることができます。主イエスは、彼らを偽善者とよんでおられますが、彼らは、表面的には神を崇めているように見えていても、実はその心は神からずいぶん離れていたことを指摘しておられます。彼らは、実は自分たちで作り上げた偶像により頼んでいたように思われます。

 

彼らは、聖書を教える立場にあったにもかかわらず、神を知らず、知ろうともせず、自分の罪を認めようともせず、自分は知者であると考えて、他の人々を裁いていたのです。

マタイの福音書7章1節にも、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」といわれています。同じく7節には、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」といわれています。自分自身のうちにある丸太、すなわち自分の罪に気がついて「まず自分の目から丸太を取り除け」と主イエスは言われるのです。

 

この世界に、罪のない人は一人もありません。自分は正しいものだと自称して、自己正当化や責任転嫁、他者を裁くということを続けている人は、自分のうちにある問題点を直視せず、避けようとばかりしますから、悔い改めることも、成長することもできない事になります。そんな私たち罪ある者を招いて救うためにイエス様は来てくださったのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたの恵みのうちを歩むためには、先ず自分自身の罪を正直に認めることから始めることを教えられました。

放蕩息子は、放蕩に身を持ち崩した時、自分の罪を自覚し、父親の元に帰って行きました。私たちも罪ある者ですが、罪あるままであなたのもとに帰ることが出来ますように。どうか罪人の私を憐れんでください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。