12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
体の器官の中で、すべてが胃であったり、すべてが目であったら体の機能を果たすことも出来ませんし生きていくことも出来ません。「多くの部分があっても、一つの体」なのであり、「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えないのです。
体の器官はお互いに助け合い、生かしあって一つの体を構成しています。そのように教会の群れも同じなのだというのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」とも言われています。
当時のコリント教会には、自由人もおれば奴隷となっている人もおり、富める人、社会的に高い地位についている人もあれば貧しい人もいたのです。そうした目に見える外見によって人を判断してしまう人もいましたが、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」なのだと言われています。
神様が人を分け隔てすることがないように、ちょうど体の器官がそうであるように、私たちも分け隔てすることなく、互いに助け合い、仕え合い、愛し合うことが求められているのです。
祈り
天の父なる神様、あなたのお導きによって聖書を理解したり、イエス・キリストの恵みに与るように導かれていることを感謝いたします。私たちも分け隔てすることなく、互いに助け合い、仕え合い、愛し合うことができますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。