25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿は到着し、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められました。このたとえ話では、「花嫁」が出てこないのですが、ここでは、用意のできている五人のおとめたちがまるで花嫁のように描かれています。

通常、婚宴は花婿の家で行われました。花婿は花嫁の家に花嫁を迎えに行き、自分の家で婚宴を祝ったのです。ですから、ここでも花婿の家で婚宴が行われたと考えたいと思います。花婿の家の戸が閉められた後で、ほかのおとめたちも来て、「ご主人様、ご主人様、開けてください」と言いました。

しかし、その家の主人である花婿はこう答えます。「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」。こうして、愚かなおとめたちは、祝宴の席に入ることができなかったのです。すなわち、イエス様が来られたとき、迎えに出る用意のできていなかった人たちは、天の国に入ることができなかったということです。

ですから、イエス様は、13節で、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われたのです。イエス様は、「目を覚ましていなさい」と言われていますが、「目を覚ましている」とは、どのようなことでしょうか?それは、花婿を迎えに出る「用意ができている」ということです(10節)。

賢いおとめたちは、花婿が遅れるかもしれないと考えて、ともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていました。賢いおとめたちは、真夜中に花婿が来ても迎えに出ることができるように、用意をしていたのです。「油」は「聖霊」を表すと言うことが出来ます。

聖霊においてイエス様は、私たちと共にいてくださるのですから、目を覚ますとは、聖霊によって歩み、キリストにつながって歩んでいるということが出来ます。

祈り

天の父なる神様、世の終わりの時は、救いと裁きが行われる時です。その時がやがて必ずあることを覚えて、目を覚まして歩み続けることが出来ますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。