では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。ローマ9:30~33

では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(新改訳)

 

神は私たち人類を救われるにあたって、先ず、イスラエル人たちを選び、彼らのうちに働いてその契約を忠実に守ってくださいました。けれどもイスラエルの人たちは、神の御心を理解できず、律法を守ることも出来なかったようです。彼らは、血筋としてのアブラハムの子孫であればそのままで救われる。割礼を受けていれば滅びに至ることはないという思いを持っていたようです。

 

彼らは、形式的には動物の犠牲を捧げ、律法を守っているように見えてはいても、彼らの心は神からずいぶん離れてしまっていたようです。「義を求めなかった異邦人」とありますが、これは神が求めておられる義を表します。異邦人の罪の最も大きなものは、神に対して無関心であり、(偶像を求めることはあっても)神に対して不敬虔であるということです。

 

創造主との関係で自分自身のことを考えることはまことに少なく、自分自身が神のような生き方をしているのです。神を礼拝しようともせず感謝もしないのです。 異邦人の罪について話すとき、パウロは、「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず」というところから始めています(1章21節)

 

これに対してユダヤ人の場合は、「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。」彼らには神の律法が与えられましたから、彼らは律法によって義を得ようとしました。そのこと自体は間違っていないのですが、律法を正しく受け止めるならば、必ず信仰を求めるはずのものでしたが、彼らの心は神から遠く離れており、神により頼む信仰ではなく、自らの行いによって義を獲得することを求めてしまったのです。

 

もし彼らが正しく律法を追い求めていたら、彼らは神の御心を知り、神により頼む信仰に導かれ、律法が教える義に到達することができたはずですが、彼らは神の御心から離れて律法主義に陥ってしまったのでした。彼らは行ないによる救いを語り、安息日、十分の一献金、洗いきよめの儀式、割礼などに関する律法には熱心でしたが、律法が教えている道徳的な良い行ないや隣人を愛することは念頭になかったようです。彼らは、安息日の教えや十分の一の献金などは厳格に守ろうとしましたが、その一方で貧しい者をさげすみ、自らの行ないの聖さを誇っていたのです。そのような生き方を主イエス・キリストは厳しく批判しておられます。

 

祈り

 

天の父なる神様、異邦人もユダヤ人もいずれも主なる神をわが主として心にお迎えすることをせず、あなたに背き続けてきたものですが、そのような私たちに心を留めてくださり、主イエスの御業により、また御霊のお導きによって信仰により、恵みによって救われる道を拓いてくださったことを心より感謝いたします。

イエス様が教えてくださったように、父であるあなたをアバ父と呼び、親しくあなたとの豊かな交わりのうちに歩むものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。