それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。ローマ7:1~3

それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。――夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。

 

すべての人は律法の下にあり、律法の下にある人は、罪のゆえにその報いを受けなければならない存在です。しかし、旧約聖書の歴史は、人間が神の律法に従い得ないことを明白に教えています。これは行いによっては救われることが出来ないということを証明しているともいえます。

 

イエス・キリストが人として、人類の代表としてこの世に来てくださったとき、主イエスも律法の下に御自分を置かれ、人として100%律法の要求を満たし、神の御心に従い通した人生を送ってくださいました。神の義を獲得するためには、その生涯において100%律法の求めに従う生活を送らなければなりませんが、イエス・キリストだけがその要求を満たしてくださいました。

 

律法主義者といわれる人たちは、律法を守ることによって救われると主張しますが、聖書が教えていることは、人は律法を守ることが出来ないという事実です。パウロはここで、イエス・キリストの恵みの下にある者は、律法の下にはないということを教えています。ここでパウロは、律法は人が生きている間にのみ権限を持つものであることを、結婚という譬えをもって説明しています。配偶者が死ねば、その人は結婚の律法から解放される。そのように、「律法とは、人を生きている間だけ支配するものである」というのです。

 

私たちは、アダムにあって律法の下に置かれていましたが、そのアダムにある自分が、第2のアダムであるキリストとともに十字架上で死んだので、アダムと結ばれていた行いの契約の関係は終わったというのです。

 

イエス・キリストを信じたとき、キリストが行われた完璧な生涯が私の生涯とみなされるとともに、わたしが受けるべき罪の怒りと刑罰をキリストが身代わりに担ってくださったのです。旧約聖書において行なわれてきた動物の犠牲が表していた贖いは、イエス・キリストにおいて完全に成就されたのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、今日もあなたのみことばを聞き、祈るひとときをお与えくださり、感謝いたします。律法の下にあり、罪の裁きによって死に向かう以外になかった私たちに、イエス・キリストを与えてくださり、この罪を贖って死んでくださった尊いキリストによって、また聖霊のお導きによって信仰を与えられ、今や恵みの下におかれていますことをおぼえて感謝いたします。

罪ある者を招き、命を与えてくださったあなたの愛の下に生涯おらせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。