19:20 主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。

19:21 主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。

19:22 また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」

19:23 モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」

19:24 主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」

19:25 モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。

 

マルコによる福音書9章には、主イエスが一部の弟子たちだけを連れて高い山に登られたことが記されています。「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9:2~3)

 

主イエスはこの時ご自分の姿をペトロ、ヤコブ、ヨハネだけに現わされました。そしてこの時、旧約時代の代表的な預言者であるモーセとエリアがそこに現れたと言われています。

 

この時も彼らは驚きと共に恐れを抱いたに違いありません。完全に聖である神の前に立つことが出来るのは罪のない完全に清い者だけだからです。また、1テモテの手紙6章には、「唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」と言われています。

 

ここに出てくる弟子たちも、そしてモーセとアロンも罪ある者として神の前に出ることの出来ない者たちです。けれども、旧約の時代の人たちも、やがて来られる救い主であるイエス・キリストの故にその罪を赦されることが示されていました。モーセもペトロもヤコブもヨハネも神に出会い、主イエスを見ることが出来たと記されていますが、これは本来できないことを一時的に特別に部分的にチラ見させてくださったということなのでしょう。神は私たちにとってそのような存在であること、それにもかかわらず私たちを神の民としてくださり神の子としてくださるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、聖なるあなたの前に罪深い私たちは滅ぼされて当然のものでしたが、あなたは私たちのために救いの道を拓き、恵みの契約を結んでくださり、預言者を立ててイスラエルを導き、イエス・キリストを遣わして罪を贖ってくださり、今は聖霊によって私たちを導いてくださいます。あなたの導きに従った歩むことが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。