愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、ローマ12:9
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。(新改訳)
人間の口は愛を語り、愛の言葉は各地に氾濫しています。しかし、真実の愛というものがどれほどあるのだろうかと思うことがあります。契約に忠実な神は語ったことを必ず実行し、イスラエルを導かれるとともに、私たちを真実に愛してくださいました。
ローマ人への手紙をこれまで読み進めてきましたが、これまで書かれてきたことは一言で言えば、神が真実に私たちを愛してくださったということであるということが出来ます。「愛には偽りがあってはならない」というとき、パウロは神の愛を基準としてそのことを述べています。
愛は偽善であってはならないし、偽りの愛は愛と呼ぶことは出来ないのです。ここに至って、パウロは、私たちも真実の愛を持って生きるようにと勧めていますが、なぜ私たちにそれが出来るのかといえば、神が私たちを愛してくださるその愛は、聖霊において私たちの心に働いて「心の一新によって自分を変え」(2節)て下さるからに他なりません。
このように私たちは、神の愛をいただいた者として、感謝をもってその愛を喜び、神への応答として愛する心を持つ者として変えられていくのです。
「偽善的ではない愛」について、パウロは「悪を憎み」「善に親しむ」と述べています。悪を憎むというのは、犯罪を犯した悪人を憎むということではなく、何よりも自分自身の中にある悪を憎むということです。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」と主イエスは言われました(マタイ7:3~5節)。
愛を持つためには自分のうちにある悪を憎む。これが愛の出発点です。悪を憎まないならば、本当の愛を持つことはできません。また、善に親しむことについて、フィリピ4章には次のように言われています。「兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」(フィリピ4:8~9)
真実の愛を求めるこの言葉は、イエス・キリストに倣う者となるということに他なりません。クリスチャンは、イエス・キリストに向かって日々新しくされつつイエス・キリストに近づこうとする者なのです。
祈り
天の父なる神様、神は愛です。と言われているように、あなたは愛そのものです。そして真実な愛を持って私たちを愛してくださっていることを心より感謝いたします。あなたの愛に応えて、私たちもあなたが私たちを愛してくださったように愛し合うことが出来るようにお導きください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。