「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。ローマ4:17~19

このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。(新改訳)

 

信仰の父といわれるアブラハムの信仰について記されているところです。先にアブラハム契約について記しましたが、神はアブラハムに対して恵みの契約を結ばれました。これは今も有効な契約であり、神を信頼し、その信仰によって歩もうとするものには、アブラハムに約束された祝福を私たちも信仰によっていただくことが出来ることを教えています。

 

創世記12章を見ると、神はアブラハムに、自分の故郷を捨て、自分の家族から離れ、神が示す地に行くようにお命じになりました。「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」と言われたのです。彼はこの言葉を聞いて、住み慣れた故郷であるウルの町を出て、約束の地カナンに向かったのです。このことから、神への信仰とは神(の言葉)を信頼して従うことであることが分かります。

 

彼は、「望みえないときに望みを抱いて信じました。」と言われているように、神によって、あなたとサラの子孫を大いなる国民にする。あなたの子孫によってすべての民が祝福を得るという約束を与えられましたが、この約束はすぐには実現せず、彼もその妻も高齢になっていきました。人間的に見れば事もが生まれることは不可能な年齢となっていましたが、彼は神の約束を信じたのです。そうしたアブラハムとサラに、神はイサクという子供を与えてくださいました。

 

すでに高齢になった彼に対して、神は「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい」と言われ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われました(創世記15章5節)。この言葉を信じ、神に信頼して生きるようにとお命じになったのです。神様は、アブラハムをテストされたように私たちの信仰をテストされたり、試練によって私たちを成長させ整えようとなさることもあります。聖書にしるされた救いの歴史は、さまざまな弱さや罪を持った私たちを省み、弱さの中に働く神の恵みを現わしています。

 

アブラハムの出来事を読む時、子供が奇跡的に生まれたということで話しを終えてはなりません。大切なことは、神の約束は真実であること、神は約束に忠実にそれを実現なさる方であり、約束の救い主が事実アブラハムの子孫から生まれたということにあります。創世記には11のトーレドート(系図)が記されていますが、これを見ていくと神の祝福の恵みがどのように受け継がれ、やがて来るイエス・キリストに向けられているかがわかります。

 

祈り

 

天の父なる神様、今日もあなたのみことばを聞き、祈るひとときをお与えくださいますことを感謝いたします。あなたはアブラハムをお選びになり、祝福の基としてくださり、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてやがてイエス・キリストへと続く救いの歴史を導き、今日の私たちにもキリストによって救いに入れられる道を拓いてくださっていることを覚えて感謝いたします。

信仰によって生きる、恵みの道を歩ませてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。