わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。ローマ14:7~10

 

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。(新改訳)

 

生まれながらの人はみな、「自分のために」という思いを持っているのではないでしょうか。何をやるにしても自分が中心であり、自分で判断し、決断し、自分のために生きようとするのです。しかし、今日の聖書の箇所には、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」と言われています。

 

この言葉を読む時、私はローマ書12章2節のみことばを思い起こします。そこには、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と言われています。

 

このみことばを思い起こす時、ここでパウロが述べているのは、「心を新たにして自分を変えていただいた」クリスチャンたちのことがその念頭にあることが分かります。

 

キリストのために生き、キリストのために死ぬという生き方は、その人の主人は自分自身ではなくキリストがその人の主人となっているということを表しています。聖書では、「主」と訳されている言葉はキュリオスというギリシャ語の訳ですが、これはその言葉のように、イエス・キリストに対しての関係が「主(あるじ)」であるということを表しています。

 

パウロは、自分自身のことを「主のしもべ」という表現で表しているところがありますが、彼は自分自身を主イエスのしもべであると位置づけていました。それは主イエスの他の弟子たちも同じです。クリスチャンとは、主イエスをわたしの主と告白する人たちであり、自分に死に、自分を十字架につけて、キリストのうちに生きるようになったひとです。

「あなたはメシアです。」という信仰の告白をしたペトロに対して、主イエスは、やがて捕らえられ、苦しみを受け、十字架につけられて死に、よみがえるということを教えられましたが、ペトロはそれを聞いて強くいさめ始めました。その時主イエスは、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(16:23)と言われました。

 

そのときに言われた言葉は、「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)という言葉でした。主イエスの弟子とは、「自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従う」者だと言われたのです。これは先ほどの言葉で言えば、私はキリストのしもべとなることであり、キリストをわたしの主人として従うことに他なりません。自分が主人であり、キリストも主人であるということはありえないのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、私たちはあなたによって多くの恵みを与えられ、私たちの救い主としてイエス・キリストをも与えてくださいましたことを心より感謝いたします。あなたこそ私たちの主であり、栄光をお受けになるに足るお方ですのに、私たちはしばしば、あなたの御心に聞き従うよりも自分の考えや判断によって物事を考えたり行なったりしてしまうことがあります。あなたの弟子として生きることはそのような私自身のうちにある、自分が栄光を受けたい、自分のやりたいようにしたいという思いとの戦いの中で、あなたの御心に従うことが出来ますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。