7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

 

今日のみ言葉を読んで戸惑う人もいるかもわかりません。例えばローマ書3章には、「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。」(ローマ書3:28~30)

 

ここには信仰によって義とされるという事が言われています。これは矛盾しているのではないかと思う方もいるかもわかりませんが、本物の信仰は行いを伴うものであることも、聖書には教えられているのです。

 

ヤコブの手紙2章には、「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブの手紙2:14~17)

 

イエス・キリストは私たちの模範であるということが出来ますが、イエス様が父なる神への確かな信仰を持っているという事を私たちが確かめようとするとき、もしもイエス様が、「わたしは父なる神を信じている」と言いながら、父なる神様を愛そうともしないし、父なる神様のみ言葉を聴くことも祈ることもしない、父なる神に従おうともしないとするならばそれは本物の信仰とは言えないという事も分かるのではないでしょうか。

 

祈り

 

天の父なる神様、口先だけの信仰ではなく、まごころからの真実の信仰をもって生きることが出来ますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。