律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。ローマ2:12~16
律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。 —律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。—私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。(新改訳)
権力や力を背景にもちながら人々を搾取したり、悪を行う人がいます。そんな人たちの横暴を見るとき、正義が守られることを私たちは願います。
詩編62編12節で、ダビデは、「主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます」と語り、神が行いによって人を裁いてくださることを恵みとして受けとめています。
また主イエスは、マタイ25章において、行いによる裁きについて述べておられます。「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』」(マタイ25:41~43、45)
「最も小さい者」とは、社会的に弱い立場にある人、何のとりえもないようなクリスチャンの話なのだと考えてもよいでしょう。人間的に見れば最も取り柄のない者、卑下される者のことです。そのような弱い者に対する良い行ないを、主イエス・キリストはそれが御自分に対して行われた行為として受け入れてくださるというのです。
ここに言われている行いは、人々の脚光をあびるような華々しいことではなく、食べ物を与える、水を飲ませる、病気の時に訪ねるというようなことですが、これはクリスチャンが迫害にあっている時代であることをおもえば、非常に勇気のいる行為であるということも出来ます。それは、キリシタン禁制の時代に、捕われているクリスチャンを見舞うようなことです。
異邦人であっても、神はその一人ひとりに良心を与えてくださり、正しいことと間違ったことを判断する心を与えてくださっています。しかし、そのようにして生かされている私たちは、パウロも述べているように正しいことを行ない得ない者であること、聖なる神の前には、何の言い訳も弁明もできない者である事を覚えずにはいられません。
祈り
天の父なる神様、あなたが私たちを神のかたちに似せて創造し、神とともに生きる者としてくださったことを感謝いたします。しかし、あなたが与えてくださった律法を自分自身に当てはめてみる時、これを行ない得ないものであることを認めざるを得ない者です。行いに応じて人々を裁かれる方は、その裁きをイエス・キリストに負わせて下さったことをいつも覚えるものとならせてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。