わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。ローマ15:1~3

私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。(新改訳)

 

今日の箇所には、「強くない者の弱さを担う」ことが語られます。私たちが住んでいるこの世界は、権力がある者、経済力がある者、軍事力がある者、能力がある者、大きな成果をあげた者(例えば、競技においてメダルを取った人、偉大な発見をした人など)、地位のある者、などがもてはやされ、そうした人々に焦点が当てられて、そうした人々によってこの世界が動かされているようにも思われます。

 

逆に、社会的に弱い立場にある人は、人々から関心をもたれることもなく、逆に虐げられることもあります。そうした人たちの弱さを担うようにとここには勧められています。事実、社会福祉や医療、教育なども進んでいない社会にあって、初代教会においては、奴隷や女性、貧しい身分の人、障碍を持つ人、病気の人、一人暮らしのお年寄りなどが、ともに受け入れられて教会の構成員として大切な働きをしていったのでした。

 

使徒の働き6章には、やもめなど貧しい方々を支援する働きのために7人の執事を選んだことが記されていますし、4章には、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」(使徒4:32~35)と言われています。

 

「天路歴程」という書物を書いたことで知られているジョン・バニヤンは「天路歴程・第二部」を書き、クリスチャンの妻と子どもが天国への旅に出かける話を続編として出しています。その中には、強い兄弟が何人か出て来て、いつも弱い者を助けており、それによって弱い者も守られて無事に天国にたどり着くという話しがあります。この意味では、第二部の内容には第1部以上に教会の姿が表わされていると言うことが出来ます。力が与えられているならば、弱い者を助ければよいのです。そのためにこそ力が与えられているのです。

 

次に、「自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。」と言われています。

フィリピ2章には、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:3~8)と言われています。

 

いずれの場合も、キリストに倣う生き方が求められています。クリスチャンになるということは、イエス・キリストを我が主、我が神、わたしの救い主として受け入れることであり、主イエスに倣う人生観・世界観をもって、この方に聞き従っていくことです。

 

祈り

 

天の父なる神様、イエス・キリストは神の御子であるお方なのに、私たちを罪と死から救い出すために、人としてこの世に生まれ、人に仕える者としてその生涯を歩んでくださいました。福音書を読む時、主イエスがすべての生涯において神と人とを愛するお方であられたことを教えられます。今も生きて働いてくださる主の御あとに倣って従うものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。