ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。ローマ3:24

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(新改訳)

 

この節について、昨日は「贖い」について記したのですが、今日は「恵み」について記します。この節には、「値なしに」を言われていますが、「恵み」と「値なしに」は、ほぼ同じ意味と考えることも出来ます。聖書が私たちに教えている救いは、恵みによる救い、さらに強調して言うならば、恵みのみによる救いであるということが出来ます。

 

「恵みのみによる」ということは、救いは100%神が一方的に私たちに与えてくださるものだということです。私たちの救いは、私たちにただで与えられるという意味で「価なし」に与えられるものであり、神はその代価を支払ってくださったのです。

 

私たちが社会生活をしていく中で教えられていることは、一般的に値段の高いものは価値の高いものであり、値段の低いものは価値が低いものというものの見方があります。そのようにお金の大小によって価値の大小を見定めていくという習慣がいつの間にか身についてきています。

 

しかし、聖書の価値観は、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(1コリント4:18)というものです。「見えないもの」については、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:13)、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22~23)などにおいてみることが出来ますが、これらいつまでも続くものは、お金では計ることの出来ない尊いものです。逆にお金によって計ることのできるものは、やがては消えてしまうものだといわれるのです。

 

神は、「恵み」によって、私たちを救い、真実に尊いものによって私たちを満たしてくださいます。

 

祈り

 

天の父なる神様、罪のために自分の力では罪と死の束縛から逃れることができない私たちのために、あなたは私たちの救い主としてイエス・キリストを遣わしてくださいました。罪を赦され、自由なものとされる道は簡単なものではありませんでしたが、イエス様は、私たちのまことの大祭司として十字架によって神との和解をもたらしてくださったことを感謝いたします。

あなたの恵みのうちを生涯歩むことができますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。