そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。ローマ5:18~21
こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(新改訳)
この箇所も、神の恵みによる救いについて記されているところです。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」と言われているのは、これまで述べられてきたように、アダムが罪を犯したために罪と死が人類に入ってきましたが、ひとりの人の従順によって、すなわち、人としてきてくださったイエス・キリストの完全な従順の生涯によって、キリストを信じて受け入れる多くの人々が、信仰によって罪を赦され、神との平和が与えられるのです。
イエス・キリストを私の救い主、私の主と信じて受け入れるものはその信仰によってすでに救われています。それでも、私たちはアダムから受け継いだ肉体を持っており、この肉体は死ななければなりません。アダムが犯した罪の影響から100%逃れることはこの地上にいる間は不可能です。私たちはなお、様々な面で罪の影響を受けており、この世の生涯の終わりには死を迎えなければなりません。
しかし、イエス・キリストが死んで復活なさったように、私たちも朽ちない者に復活することが出来るのです。神とともに生きるものにとってこの世は、寄留者としての人生であり、天の故郷を仰ぎつつ、信仰によってこの世を、神の御心を行なう者として生きるのです。
祈り
天の父なる神様、あなたのお恵みによって、信仰を与えられ、罪を赦され、聖霊の導きの中で、天に国籍を持つものとされていることを心より感謝いたします。
あなたのお恵みによって、私たちは死に向かう人生から、死の向こうにある永遠のいのちに向かう人生へと変えられている事を心より感謝いたします。この生涯をいつまでもあなたとともに、その恵みのうちに生きる者とならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。