しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。ローマ6:17~19
神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(新改訳)
「あなたがたは、もとは罪の奴隷でした」とあります。人類の始祖アダムが罪を犯して以来、人はみな罪を持ったまま生まれ、罪のために神の裁きを受けるべき存在となっているという私たちの現実をこのように教えているのです。
あなたには罪があると言われても、人が一般的に考える規準は人と比べてどうか、自分の経験に基づいてどうかということからしか判断しませんから、他の人と比べて自分はどの程度のものかというくらいにしかそれを考えないのです。
しかし、人と比べてではなく、神と比べて、神の規準によってそれは判断されるのです。人の思いと行いのすべてをご存知である神の前に、私には何の罪もないといえる人は一人もありません。一つでも罪があるならその一つの罪のために裁かれなければならないのです。これが罪の奴隷となっていると言うことの意味です。罪の奴隷となっているものの人生は、死に向かう人生となります。
どんなに楽しい日々を送ったとしても、その最終的な終着点は永遠の死に向かう人生であるということです。
これに対して神の奴隷であるというのは、イエス・キリストによって罪を赦され、神の子供として、神の家に迎え入れられる人ということです。神は私たちを罪の奴隷から解放されて神とともに自由な人として生きるようにその道を開いてくださいましたから、神の奴隷とは、自由にされた人のことを表しています。神がいのちの源なのですから、神を離れたものは罪の奴隷となり、死が付きまといますが、神とともに生きるものは、罪のためにこの世の肉体の死を味わいますが、死の向こうには、神の家に迎えられ、永遠のいのちという至福のいのちの世界に生きるようになるのです。
祈り
天の父なる神様、あなたのお恵みによって今日もみことばを聞き、祈るひとときをお与えくださりありがとうございます。この世の多くの人々は、自分がどこから来てどこに行くのかということを知らないまま過ごしていますが、私たちには聖書によって私たちに真理を教えてくださるとともに、希望と将来を与えてくださっていることを覚えて感謝いたします。なお、多くの人々が罪の奴隷の受胎から解放されて、いのちへの人生を生きることができますようにお導きください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。