肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。ローマ8:5~8
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。(新改訳)
肉、すなわち自分を含めた人間的な思いと御霊による思いとが対比されています。私たちは、生まれながらに自分を中心としたものの考え方生き方をしてきているのではないでしょうか。そんな私たちに対して聖書のみ言葉、神による語りかけは、私自身の心と思いが神を神とした考えや生き方に変わっていくことを求めています。
イエス・キリストを信じてクリスチャンになってからも、自分のがんばりで物事を達成しようとする思い(肉によって実現しようとする思い)が依然として残っていることもあるでしょう。
パウロは、ローマ12章1~2節において、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1~2)と語りました。
12章の2節は、新改訳では「心の一心によって自分を変えなさい」という訳になっていますが、この訳だと、自分の努力で変えようとするように受け取られてしまうかもしれません。ここは、新共同訳のように「変えていただきなさい」という訳がふさわしいでしょう。神によって自分自身が変えられていくことを祈り願うものでありたいと思います。
祈り
天の父なる神様、パウロも告白しているように私のうちには肉の思いがあり、私を生かし支えてくださるあなたの御心に従うよりも、自分の思いにしたがってしまうこともあります。しかし、そんな私を導き、あなたは私のものだと言ってあなたのもとに引き止めてくださることを感謝いたします。
御霊に導かれ、御霊によって生きる者とならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。