では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。ローマ8:31~32

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(新改訳)

 

ここで、「これらのこと」といっているのは、これまでローマ人への手紙を書いてきたこと全体を示しています。

全体の流れを簡単に整理すると、最初に挨拶の言葉があり、1章18節から3章20節のところで、私たちは皆罪人であって救いを必要としているものであると語られました。そうした罪の中にある私たちのために、神が罪を赦し義と認めて下さる道を開いてくださったことが記されています。そして、聖化について説明し、主イエス・キリストにあって私たちはクリスチャンとして罪から解放されて成長していくものであることを教えられ、そして栄光について記されてきたのです。

3章21節以降では、義認、キリストによるあがない、恵みの賜物、神の愛、聖化、そして栄化などについてパウロは記してきたあとで、「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と言っているのです。

ヨハネの福音書は、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:11~12)と述べているように、世の人々の多くは神を神として求めようとしたり信じようとはしません。しかし、イエス・キリストの神を信じる人たちには神の子となる資格を与えてくださいました。

 

さらに13節には、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」とあるように、神を信じる人たちはみな神によって生まれた人たちなのです。聖書は悪魔や悪霊が世の支配者であるかのように働いていることを教えていますし、いつの時代も反キリストといわれる人たちがいるのですが、神が私たちの神であるならば、何者も私たちに敵対することは出来ない。私たちには、この方がともにいてくださり、主が約束してくださった栄光に向かって歩み続けることが出来るのだというのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」とあるように、あなたのお恵みによって招かれ、信仰によって贖われ、あなたの子供として生きることができるとは、何と幸いなことでしょうか。あなたがお与えになる道を、あなたがともにおられることを覚えて歩み続けることができますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。