ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。ローマ10:14~17

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(新改訳)

 

信仰は聞くことによって始まりますが、神は人々の働きによって福音を伝えるという方法をお用いになりましたから、宣べ伝える人がいなければ、聞くことが出来ません。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」と言われている通りです。

 

さらに、「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるできよう。」と言われているように、それは人が思い思いに伝えればよいということではなく、神によって遣わされることなしにはこの働きは実現できないということでもあるのです。

 

イエス・キリストがこの世にお生まれになってから、約2000年という年月が流れました。その間、多くの人々がこの福音を伝えて下さり、今や世界中にこの福音が伝えられるようになっています。神がそれらの人たちを遣わしてくださったのです。

 

「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:10~12)

 

イエス・キリスト以外に私たちが罪と死の中から救われる道は他にありません。唯一の救いの道を宣べ伝えることは、ひとりの人の生と死を分かつような重大な、そして尊い働きです。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。」

 

神が御自分を啓示して下さらなければ、私たちは神に近づくことはできません。神が御言葉をもって私たちに啓示を与え、導いてくださるのです。神は、私たちの目に見えるように御自身を現わされるのではなく、御言葉を持って語りかけてくださる神であられることを、聖書は繰り返し強調しています。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたが福音を伝える人を起こし、私たちのもとに遣わしてくださったことを心より感謝いたします。また私たちを、「よい知らせを伝える者」として、まだあなたを知らない人々にも遣わしてくださいます。

「よい知らせを伝える」ことが出来ますように、救われる人が起こされますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。