そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。ヨハネ20:25~28
今日はイエス・キリストが復活なさったことを記念するイースターの主の日を迎えています。復活こそ私たちの希望であるということが出来ます。というより復活がなければ、死に打ち勝つことがなければ私たちには将来も希望もないといわなければなりません。
どのような人生を送ったとしてもその最終的に行きつくところが死であるとするならば、その人の人生は空しいものです。ここで言われている復活は、バラモン教が教える輪廻ということではありません。輪廻の場合は、再び何者かに生まれ変わるというのですが、その考え、思想もやがて死を迎える人生にすぎません。
しかし、事実、私たちの人生は、後戻りもできないし、生まれ変わることもないのです。たった一つの人生です。だからこそこの人生を命に向かう人生とするのか死に向かう人生にするのか、このいずれかの人生を私たちは歩むことになるのです。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言っていたトマスは、復活の主イエスに出会い、ひれ伏して、「わたしの主、わたしの神」と告白しました。私たちを罪と死から解放するために十字架にかかり、死んでよみがえられたこのお方にこそ私たちの希望があるのです。
祈り
天の父なる神様、人類は罪と死に対しては全く無力なものですが、あなたの愛するひとり子の生涯と十字架の死と復活によって、私たちが罪をあがなわれ、復活の希望を与えられていることを感謝いたします。この希望を抱きつつ、あなたの御旨に従うものとならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。