一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。フィリピ1:16~18

当時、キリストを宣べ伝えている人たちには2種類の人たちがいたようです。愛の動機からキリストを伝えようとする人たちと、獄中のパウロをなお一層苦しめようという動機からキリストを伝えている人たちがあるというのです。

ユダヤ人たちの中には、パウロを殺害するまでは食事をしないと誓うほどにパウロを憎んでいた人たちがいたようです(使徒23:12参照)。彼らは、さらにパウロを苦しめるためにキリストを宣べ伝えたというのですが、パウロはひどい奴だというためにキリストを引き合いに出したということでしょう。

パウロを苦しめようという動機で語っている人もいたのですが、パウロは、たとえそのような動機であっても、キリストが宣べ伝えられているのだから私はそれを喜んでいるというのです。自分は苦しみを受けても(現にパウロはキリストを宣べ伝えたために迫害を受け、東国の苦しみにも遭遇しているのです)むしろその苦しみを喜ぶといっているのです。

これは主イエスが山上の説教の中で次のように言われた言葉を思い起こさせます。「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10~12)

祈り

天の父なる神様、初代のクリスチャンたちは義のために迫害されることを喜びつつ、イエス・キリストを宣べ伝えていきました。それによって福音が広く伝えられ、多くの人々のうちに浸透し根付くようになっていきました。これは聖書にいわれているように、人の業によるものではなく、あなたの働きであったことを感謝いたします。真実にあなたを知り、あなたの働きを知ることが出来ますように。それを喜ぶことが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。