互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。フィリピ2:5~8

パウロは、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と述べた後で、これはキリスト・イエスにも見られるものですと述べています。神の御子である主イエスご自身がへりくだって人としてこの世に生まれ、しかも貧しい田舎者としてその生涯を人々に仕えるものとして歩み、十字架の死にいたるまでも、父なる神の御心に従順に歩まれたのです。

由木康という方が作られた讃美歌121番にはこのように歌われています。まぶねのなかに うぶごえあげ木工(たくみ)の家に人となりて貧しきうれい 生くるなやみつぶさになめし この人を見よ 食するひまも うちわすれてしいたげられし ひとをたずね友なきものの 友となりてこころくだきし この人を見よ すべてのものを あたえしすえ死のほかなにも むくいられで十字架のうえに あげられつつ敵をゆるしし この人を見よ この人を見よ この人にぞこよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ人となりたる 活ける神なれ

神の御子である方が、このような生涯を歩まれて、その苦しみと死によって私たちの罪を贖ってくださいました。

祈り

天の父なる神様、あなたがかってアブラハムに約束なさったように、救いの御業を実現してくださるために、あなたのひとり子を遣わし、御子の十字架の死と復活によってその救いの確かなことを示してくださいました。私たちに与えられたこのお方を、私たちの救い主として仰ぎ続けることが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。