ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。ローマ14:5~6

ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(新改訳)

 

使徒言行録をみると、その当時、モーセの律法を守ることに固執していたユダヤ人たちは、異邦人もモーセの律法を守らなければ救われないということを教えていました。それで「旧約聖書に書いてあることをどこまで守らなければいけないのか」ということが大きな問題となったのです。

 

使徒言行録15章に記されているエルサレム会議での結論は、「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」(使徒15:28~29)というものでした。

 

つまり、異邦人に対して、これまでユダヤ人たちが守ってきたモーセの律法を守るようにという重荷を負わせないことに決めたのです。偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること、このことを慎めばよいというのがエルサレム会議での決定でした。

 

ユダヤ人たちは土曜日に安息日の礼拝を守り、割礼を行ない、動物のいけにえをささげるなどのことをしていたのですが、そのような儀式律法は、メシア、キリストがすべてを成就した今、もはやそれを守る必要はない。もうその義務はない。ということを初代教会の使徒たちは確認し、イエス・キリストによる贖いによって、それを受け取る信仰によってのみ救われるということを確認したのです。

 

初代教会のエルサレム会議は、重要な決議をしたのですが、このことを理解していくためには、そのような結論へと導いてくださった神様の恵みと当時の教会の状況を理解する必要があります。この手紙が書かれていた当時は、まだエルサレムに神殿が存在し、礼拝も行なわれていました。パウロも、弟子たちも、初代教会の指導者たちはまだエルサレムの神殿で礼拝をしていました。

 

安息日である土曜日にはユダヤ人の会堂(シナゴーグ)に行って礼拝し、町々の会堂に行っては土曜日の礼拝で一緒に聖書(旧約聖書)を開いて読み、「ここに教師がいれば教えてください」と求められれば、パウロはユダヤ人の間では教師と認められていましたから、そこで御言葉を教えることもあったのです。

 

エルサレム会議に先立って、使徒10章にはペテロが神に示された出来事が記されています。「彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」」(使徒10:10~15)

 

この出来事によって、ペトロは、神がユダヤ人だけではなく異邦人にも分け隔てなく福音を伝えることを願っておられることを悟らされるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたの恵みはユダヤ人に限らず、異邦人である私たちにも与えられたことを感謝いたします。私たちの中にも差別する心や人を見下してしまうような心がありますが、そうした心を新しく変えてくださり、イエス・キリストに向かって成長していくことができますように、御霊によってお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。