イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。ヨハネの福音書2:23
イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
多くの人が主イエスのなさるしるしを見て信じたのですが、「イエス御自身は彼らを信用されなかった。」と言われています。「信じた」と言われていますが、信仰の質が問題なのです。このとき信じた人たちは、主イエスのしるしを見て信じた人たちでした。水をぶどう酒に変えたり、病気を癒すイエス様の姿を見て信じたのですが、それは不思議な力を持ち、病気を癒してくださる方として主イエスを信じたのですが、彼らは、自分の罪を悔い改めることもなく、罪人の救い主として信じたわけではありませんでした。
彼らは、口々に「信じます」と言っていたかもしれませんが、主イエスは彼らを信用されませんでした。それは、彼らのことも、彼らの心のうちにあることもすべてを知っていたからでした。わたしのことをすべて知っておられる方がおられるのです。
辛い現実に立たされたとき、ある人は、「誰もこの苦しみを分かってくれない。」と思います。『誰も知らない私の悩み Nobody Knows the Trouble I’ve Seen』は、19世紀半ば頃から広まった黒人霊歌です。これは何も孤独で気弱に嘆いているわけではなく、「Nobody knows but Jesus」、すなわち主イエスはちゃんと分かっていてくださる、だから心を強く持って苦しみや悲しみにも耐えていけると歌われます。
神が私たちのことを知っておられる。そして、まごころから信じて従う者を助け、導いてくださるというのが聖書の一貫したメッセージです。1サムエル16:7には、「主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」」と言われていますし、使徒1章24節には、使徒たちが「「すべての人の心をご存じである主よ、」と祈っていることが分かります。
神が、私たち、人の心を知っておられると言うことは、私たちにとって大きな慰めであり喜びではないでしょうか。
祈り
天の父なる神様、あなたはこの世界のすべてを、そしてわたしのこともすべてをご存知です。だからこそ、私たちを罪と死の中から解放するために独り子をも与えてくださったことを感謝いたします。あなたにすべてをお委ねし、信頼をもってあなたの愛にお応えすることができますようにお導きください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。