わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。ローマ6:4
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(新改訳)
「私たちは、・・・キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」とありますが、神の救いの恵みをいただくためには、(罪のない)キリストの死がどうしても必要でした。それは一つには、私たちもまたキリストとともに葬られるためです。
神が与えられる救いは、一部分の修理や対症療法ではなく、私たち自身を丸ごと救ってくださるというものですから、そのためには古い自分が葬られる必要があるのです。この死という転機がないとしたら、神が求めておられるような「聖」に到達することは不可能です。イエス・キリストのいのちによみがえるためには、どうしても古いいのちを葬る必要があるのです。
別のところでパウロは次のように述べています、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6:6)主イエスをわたしの救い主と信じて受け入れたものは、キリストとともに十字架につけられた人であり、罪の体が滅びて、もはや罪の奴隷ではなくなっているのです。
祈り
天の父なる神様、パウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と告白しましたが、私たちもこの死に定められた罪の体から救われるためには、キリストが苦しみを受け、わたしの受けるべき罪の刑罰を身代わりに負って死んでくださる必要がありました。そして、今やキリストにある者は、キリストとともに死んで、キリストのいのちに生きる者とされていることを感謝いたします。
生涯、主にあって生きる者とならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。