もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。

ローマ11:15~21

もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。(新改訳)

 

神の契約の民の「根」はアブラハムであり、アブラハムの契約のことです。アブラハム契約は、アブラハムの子孫だけが祝福を受けるという約束ではなく、アブラハムの子孫によって、地上のあらゆる民族が祝福を受けるというものでした。アブラハムの子孫としてお生まれになったイエス・キリストによって、この世界のあらゆる人々に神の祝福が及ぶようになるのです。

 

オリーブの木はイスラエルを象徴するものです。それに対して野生種と言われているのは異邦人のことを指しています。異邦人たちは神の御恵みによって接ぎ木されました。それによって彼らはその木の一部となり、イエス・キリストにおいてアブラハム契約の祝福が異邦人にまで及んだのです。

 

ここではそれとともに、イスラエルの民の不信仰のために、彼らへの恵みが異邦人に注がれるようになったことも言われています。神が愛と御恵みを与えてくださるのに、感謝もせず、それを受けることを当たり前のように思っていることは、物事の本質を見誤ることになります。私たちは神によって生かされていることを忘れてはなりません。

 

申命記6章には有名なみ言葉があります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4~5)ここに言われているように、本当の契約関係は愛の関係であって、愛の関係とは、お互いを愛し合ってお互いを祝福しあう関係なのです。不信仰とは、その愛の関係を破壊するものです。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたは愛し合う関係を生み出すために、人間を創造し、私たちが生きるために必要なあらゆるものを与えてくださっていることを、心より感謝いたします。あなたが、ひとり子をも与えてくださった恵みを覚えて、真実の愛に生きることができますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。