20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、

 20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」

 

イエス様はヤコブとヨハネに、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われました。イエス様は御自分が十字架につけられると言われましたが、彼らは苦難を受けて救いを実現される神の御業について知りませんでした。

 

イエス様の右と左に座らせて欲しいとは、そのイエス様の右と左に十字架につけて欲しいということなのです。そして、彼らに、「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」との覚悟を問われたのです。イエス様が飲もうとしている杯、それは十二人の弟子に予告された御自分の苦難と死のことです。

 

イエス様は御自分の苦しみを共に苦しむ覚悟はあるかとヤコブとヨハネに尋ねたのです。それに対して、二人は「できます」と断言しました。この時も、二人は自分が何を「できる」と言っているのかよく分からなかったと思います。

 

そのような彼らにイエス様はこう言われるのです。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」。彼らはやがて、十字架の死から復活されたイエス様に再び会い、天に挙げられたイエス様から聖霊を与えられることによって、イエス様の苦しみを自分の苦しみとすることができるようになりました。

 

使徒言行録の12章1節には、「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」と記されています。後にヤコブは殉教の死を遂げるようになります。また、その弟ヨハネも、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモス島に島流しにされるという苦難にあずかる者となりました。

 

このように、ヤコブとヨハネは、イエス様の杯を飲むことになる、イエス様の名のゆえに苦しみを受ける者となるのです。そのことをイエス様は見据えながらも、彼らにこう言われるのです。「しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」。

 

新しい世界で、栄光の座に着かれるイエス様の右と左に誰が座るかは、イエス様が決められることではなく、イエス様の父である神様によって定められた人々に許されることなのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、イエス様がこれから十字架に向けて歩みを進めていこうとするとき、弟子たちはそのことの意味が分かりませんでしたが、私たちのために救いの御業を実現し、罪を贖い、私たちに神の国をもたらしてくださる恵みを感謝いたします。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。