22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔
22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
最後の晩餐の後、イエス様はオリーブ山に行かれましたが、弟子たちもついていきました。この時、イエス様は、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた後で、弟子たちからは少し離れたところでゲッセマネの祈りと言われる祈りをささげられました。
実際にはさらに多くの言葉で祈られたと思われますが、この時祈られたことは、次の言葉で要約されています。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
神の御子であるイエス様が人としてこの世に来られた目的は、人としてこの世に生まれ、私たちと同じ罪ある人間の立場に身を置いて、父なる神の御心に従い抜いたのち、苦しみを受けて十字架におかかりになるということでした。メシアはそのような苦しみを受けて私たちの罪を贖ってくださることが預言されていたのです。
イエス様はそのことを十分にご承知のことでしたが、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」という祈りには、何よりも父なる神から裁きを受けることの苦しみがはるかに大きなものであり、イエス様も出来ればこれを回避したいという思いを抱かれたのです。それは想像を絶する苦しみでしたが、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と、このことにおいても従順に従われることを告白しておられるのです。
祈り
天の父なる神様、イエス様が味わった十字架の苦しみは、私たちには想像もできないものです。罪のない神の御子が、罪人の身代わりに苦しみを受け、父なる神からあらゆる罪人たちの罪の裁きを身代わりに受けて裁かれるという苦しみはイエス様にしか味わうことの出来ないものです。しかし、そのような苦しみ、ご自分の命という代償を払って私たちを贖ってくださいましたことを心より感謝いたします。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。