18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、イエスはこのたとえを話されました。
このたとえには、ファリサイ派の人と徴税人が登場します。ファリサイ派の人は、『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』と祈りました。
ところが徴税人は、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈りました。そして、義とされて家に帰ったのは徴税人の方だと言われたのです。
『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈ったということは、この人が普段の生活をしていく中で自分自身の罪を自覚し、心から神により頼む思いを持っていたということです。
これに対して、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」は、外見は神に聞き従っているように見えても、実際は神に頼らなくても自分の努力によって神の義を得られるという思い上がりを持っているのです。
祈り
天の父なる神様、へりくだってあなたの恵みを受け止め、神と人とに仕える者となることが出来ますように。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。