主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。密雲と濃霧が主の周りに立ちこめ/正しい裁きが王座の基をなす。詩篇97編1~2節
私たちの人生には喜びもあれば悲しみもあります。流れてくるニュースの多くは悲しいニュースや否定的なニュースであると言われています。石川啄木は『一握の砂』の中で、「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」と記しています。どんなに働いても、依然として私の生活(くらし)は楽にならない。私はじっと手を見る。という意味になりますが、同じような気持ちを持ちながら暮らしている人も少なくないかもしれません。
聖書に出てくる庶民といわれる人たちの多くは、やはり同じような思いをもって暮らしていたようにも思われますが、そんな私たちに、神である主は、「喜び躍れ」「喜び祝え」と述べています。神とともに生きる人生とは、神が私を新しい次元に引き上げてくださり、聖霊によって新しい見識が与えられ、その人自身が新しくされることを経験するようになるのです。
喜びの手紙とも言われるフィリピの信徒への手紙において、パウロは、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ3:8~9)と記しています。
「イエス・キリストを知ることのあまりの素晴らしさ」と表現しているパウロの心には、先の詩編が述べていたような喜びがありました。この喜びは、線香花火のように一時的な喜びではなく、周りの状況に左右されず消えることのない喜びがありました。
祈り
天の父なる神様、暗闇が覆っているようなこの世界にあって、私たち自身の内にも罪があって、あなたとの間を隔てるものがあります。しかし、そんな私たちにあなたは真実の喜びをもたらしてくださいました。パウロが告白しているように、私たちもイエス・キリストを知ることの素晴らしい恵みと喜びを豊かに味わうものとならせてください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。