神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。(ローマ9:15~18)

神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。(新改訳)

 

神は人に自由な意思をお与えになりましたが、人は罪を犯して以来、全的堕落といわれるほどに罪の影響が人の思いと行いのすべてに影響を与えるようになってしまいましたので、神の導きがなければ、神を礼拝することも、感謝することも、よい行いをすることも出来ないものとなってしまったのです。

 

そうした私たちの内に働かれる神の恵みと神の主権が旧約聖書の歴史を通して教えられています。パウロはここで、聖書の登場人物に対して神の選びがどのように現われたかを述べています。

 

9章13節には、「「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。」とありますが、これは、神がエサウを憎んで意地悪をしたということではありません。「愛する」と「憎む」という言葉はここで契約的な言葉として使われています。神は、どの人にも一般的な恵みを与えていてくださいます。それは、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)と言われています。

 

この一般的な恵みだけでも私たちは神に感謝すべき大いなる恵みです。これによって私たちはみな生かされています。神はエサウにも豊かな祝福を与えましたし、神を知る機会も豊かに与えてくださいました。神はエサウに対して非常に親切でした。しかし、エサウとヤコブにあった大きな違いは、ヤコブには恵みの契約の祝福に預かるものとしてくださったというところにあります。

 

憐れむか憐れまないかは神御自身が決めることである、とパウロは述べています。同じことを主イエスは、ぶどう園の雇い人のたとえを持って述べておられます。「20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。」(マタイ20:1~2)

 

1日1デナリオンという約束で、午前9時、12時、5時に市場で誰も雇ってくれなかった人たちを招いてぶどう園で働かせたのです。そして支払いの時になると、どの人にも1デナリオンが渡されたので、最初に雇われた人たちが文句を言ったという話しです。そのときの主人の答えは、

 

20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』」(マタイ20:13~15)

 

ここでも主イエスは、「憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。ですから、私たちが救いの恵みに入れられるのは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるもの」であると言われています。

 

祈り

 

天の父なる神様、罪に堕落してしまった私たちを救ってくださるために、アブラハムを選び、その祝福が受け継がれていくように、契約を忠実に果たしてくださり、御ひとり子をもお与えになった恵みを感謝いたします。

あなたが選んでくださり、憐れんでくださらなければ、私のほうからあなたを求めることは決してなかったことを思います。主の恵みのうちに感謝と喜びと希望を持ってあなたの恵みのうちに歩むことができますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。