5:41 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、
5:42 毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。

一同はガマリエルの意見に賛成したのですが、使徒たちは何の罰も受けずに釈放されたわけではありませんでした。最高法院としては、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならない命じたうえで、釈放したのです。

この鞭打ちは、おそらく40回に1たりない、39回の鞭打ちであったと思われます(申命25:3)。これは決して軽い罰ではありません。鞭打ちの刑は、死人さえも出たと言われるほどの厳しい罰でありました。けれども、使徒たちは、イエスの名のための辱めを喜んでその身に受けたのです。

鞭で打ち叩かれても、痛く感じなかったとかそういうことではありません。肉体の痛みを感じながらも、それよりも、霊的な喜び、イエスのために辱めを受けているという信仰の喜びが勝ったのです。ここで「辱めを受けるほどの者にされた」とありますが、口語訳聖書は、このところを「恥を加えられるに足る者とされた」と訳し、新改訳聖書は、「はずかしめられるに値する者とされた」と訳されています。

イエスの名のために辱めを受けるという光栄、名誉があり、それに足る者、値する者にしていただいたと記されているのです。ここで、使徒たちは、イエス様が山上の説教で語られたあの言葉を思い起こしていたのではないかと思います。イエス様はマタイによる福音書の5章11節、12節でこう言われました。
「わたしのためにののしられ、迫害され、あらゆる悪口を浴びるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

使徒たちは、今自分たちが受けている辱めに、天で主イエスが報いてくださるという約束のゆえに、なお一層喜ぶことができたのです。私は、このことも主イエスが復活し、父なる神の右に上げられ、生きておられることの証拠ではないかと思います。なぜなら、死んでしまった者には何の報いも期待することはできないからです。

よみがえって死に勝利してくださった主イエスが報いていくださる。それはイエスが今も生きておられ、父なる神の右に座しているからに他なりません。聖書は、神がこの地上の生涯の歩みに応じて、それぞれに報いを与えてくださることをはっきりと教えています(二コリント5:10)。

祈り

天の父なる神様、最高法院において尋問を受け、脅され、鞭で打たれてもなお、使徒たちはキリストの福音を宣べ伝えていきました。そのような信仰に生きることが出来ますように。
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。