信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ローマ14:1~4

あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。(新改訳)

 

紀元70年にローマ帝国によってイスラエルが滅ぼされ追放されて以後は、キリスト教会は異邦人クリスチャンが占めるようになりますが、この手紙が書かれたころはユダヤ人と異邦人が混在している状況にありました。そしてユダヤ人クリスチャンのある人たちは、異邦人クリスチャンにモーセの律法を守るように強要していたのです。

 

律法そのものは神の御心を教えているものですから、それ自体悪いものではありません。律法は、私たちが生きていくための基準であり指針であるといえますが、罪ある私たちは律法を守り得ないことが問題です。ローマ3章20節には、「なぜなら、律法を実行することによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」といわれています。また、ガラテヤ3:24には「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」と言われています。

 

ここには律法の役割は、私たち人間が律法を守ることが出来ないことを自覚して、イエス・キリストに導く養育係だといわれているのです。律法は私たちが生きていくための指針なのですが、この律法に従おうとすればするほど、人の力や知恵によってこれを行おうとするのではなく、わたしの救い主としてきてくださったイエス・キリストを信じて救われるという、神が備えてくださった道以外の道がないことを教えられるのです。

 

主イエス・キリストは律法を二つの命令に要約してくださいました。その二つの命令とは、第一が「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」であり、第二が「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。「この二つにまさる掟はほかにない」とキリストは言っておられます(マルコの福音書12章参照)。モーセの律法の教えは、「この行ないによってあなたは救われる」というものではなく、「神を愛し、そして隣人を愛しなさい」という教えなのです。聖書の律法は、愛を教えているということが分かります。

 

祈り

 

天の父なる神様、この世界には強い人と弱い人がいるとも思われていますが、あなたの前に一人ひとりを映し出してみる時、実をいうと強い人はひとりもいないこと、罪という深刻な問題を自分で解決できる人などひとりもいないことを教えられます。それは、律法を行なうことができない事にも現れています。律法はすばらしい神によって与えられた人生の基準ですが、律法を行なおうとしても、罪の自覚が生じるのみであることを覚えさせられます。

イエス・キリストがこのような私たちの救い主として来て下さり、今も生きて聖霊において私たちを導きくださることを感謝いたします。主にあって生きる者とならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。