あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。ローマ6:20~23

罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(新改訳)

 

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(24節)というよく知られたみ言葉を読みました。罪はその人に死を要求するものです。罪と死は結びついており、罪ある者は必然的に死に向かうことになります。

 

実をいうと、罪ある人間にとって、最も深刻で重大な問題は「罪ゆえの死」という問題です。これはその後の永遠の暮らしを決定するものとなるからです。これを克服することが出来なければ、どのような人生を送ったとしてもその人の人生は空しいものであったといえます。この世では安楽な楽しみを謳歌するような暮らしをしたとしても、王宮に生まれて何不自由ないような暮らしをしたとしても、その最後が死に向かう人生であれば、その人の人生は空しいものであったといえます。

 

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)と言われている通りです。ここで言われている「命」とは、肉体の命のことではなく、信仰によって(キリストによって)罪を贖われ、赦されて、復活の命に生きるようにされた人の命を表しています。

 

私たちは、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)という厳粛な事実を重く受け止める必要があります。罪のない人は死ぬことがありません。また死ぬ必要もありませんが、神の前に罪を持った人は必ず肉体の死を迎えます。そしてその後神の永遠の裁きの判決を受けることになるのです。

 

「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と言われているように、死んだ後神の裁きを受ける時、主イエスを信じている人の傍らには主イエスがおられてこのように言ってくださいます。「〇〇さんは確かに罪を犯した人生を歩んできましたが、この人の身代わりにわたしが罪の怒りを受け、身代わりにその刑罰を受けましたからこの人の罪はすでに贖われています。この人の罪はすでに赦されています。安心して永遠の命に行きなさい。」

 

永遠の命に生きるとは、神を私の神として、神の恵みと愛のうちに生きることです。ここに言われている神の下さる賜物とは神の恵みと言い換えることも出来ます。私たちは、ただ神の恵みによって救われるのです。

「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5~6)

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたは私たちが生きるために必要なあらゆるものを与えてくださいます。この世の生活を守り、支えていてくださいますが、それだけではなく、私たちが内に持っている罪によって裁きとしての死を迎えなければならない私たちを救うために、イエス・キリストを与えてくださり、主イエスは苦しみを受けて、ご自分の命を捧げることによってこの罪を贖って下さいました。まことに深いあなたの愛と恵みを覚えて感謝いたします。私たちが生涯あなたの恵みのうちを歩むことが出来ますようにお導きください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。