しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。フィリピ3:7~9

パウロはそのままファリサイ派としてとどまっておれば、イスラエルの最高議会の議員にもなれたでしょうし、地位も名誉も財産も得ることが出来るようになったことでしょう。イスラエルの人たちからは称賛の目で見られるようにもなったと思われます。

ところが、彼は主イエスとの出会いによって、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」と述べています。「イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」は、主イエスを知るようになった人、聖霊によって神を知るように導かれた人だけが味わうことのできるものです。

誰かから、この食べ物はおいしいよと言われても、自分がそれを食べたのでなければ、そのおいしさは本当には分かりません。頭で「〇〇はおいしいに違いない」と思っても実際にそれを体験するのでなければわからないものです。パウロはそれを体験させられているのです。

それは迫害を受けても、逮捕され牢屋に入れられても弱まったり、消えてしまったりするようなものではありません。かつてのファリサイ人であったときは、「律法から生じる自分の義」を求めていましたが、今では「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」が与えられています。

祈り

天の父なる神様、パウロに与えてくださったように、私たちにもキリストへの信仰によって与えられる義をもたらしてくださったことを感謝いたします。あなたの御子である主イエスをますますリアルに知ることが出来るものとならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。