喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。ローマ12:15

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。(新改訳)

 

「ともに喜び、ともに泣く」ことが出来るのは、神のかたちに似せて造られた人間だからこそ出来ることです。共感できる心こそ神が私たち人間に与えてくださった人間らしい姿といえます。しかし、実際には、私たちを憎む者が悲しんでいたり、痛い思いをしている時に出てくるのは、「ざまあ見ろ」という思いであるかもしれません。その人の不幸を喜ぶようなことがあってはならないし、その人が喜んでいるのを見て悔しく思うこともあってはならない。むしろ、その人の喜びを自分のことのように喜び、その人の悲しみを自分のことのように悲しむことが教えられています。

 

例えば、自分を憎む者が家族や親族の死や病などで苦しんでいる時には、その人が自分を嫌っている敵であっても一緒に悲しみ、その人が祝福されたなら一緒に喜ぶことを教えているのです。これは、相手の気持ちになって物事を考えることが出来るようになる訓練ということも出来ます。

 

子供の時から、私たちは自分を中心にして考え、行動する習慣が身についていますが、大人になるということは、相手の立場で物事を考えることが出来るようになるといってもよいでしょう。これは、相手を愛することにつながっていくことです。

 

わたしが知っているある姉妹の方は、アフリカの子供たちを5人も里親として育てておられますが、その子供たちは、親がいなかったり、親が貧しくて教育を受けることもできないので、誰かに育ててもらいたいといって依頼された子供たちでした。あるいは、東日本大震災の時に、今も出かけていって支援活動をしている方々は、その人たちの思いを自分のことのように感じて行動に移しておられるのです。

 

そうした思いを持つためには、自分を賢いものだと自惚れていてはできない事です。相手の方に関心を持ち、へりくだって、相手に仕えること、その人の心の思いを思い巡らしていく中で、相手に近づくことが出来るようになります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」という勧めの言葉も、イエス・キリストが私たちに対して抱いてくださっている思いであることを教えられます。

 

祈り

 

天の父なる神様、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」という心は、あなた御自身の愛の心から生まれてくるものです。真実の愛がなくては私たちはそのような心に到達することが出来ないのです。どうか私たちの心が、あなたのように神を愛し、隣人を愛する心に少しでも近づくことが出来ますように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。