6:6 また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。
6:7 律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。
6:8 イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。
6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」
6:10 そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。
6:11 ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。
ある安息日の日、「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目して」いました。
病気が癒されるということは素晴らしいこと、感謝すべきことですが、彼らはそうしたことではなく、イエスを訴える口実を見つけ出そうとしていたのでした。
これに対して、主イエスは、「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」と言われて手の萎えた人を癒されたのでした。
安息日は人のためにあるもので、本来の安息日の掟の意味をくみ取るならば、安息日にも当然善を行うこと、隣人を愛することが求められています。
ところがファリサイ人や律法学者たちはこれを見て、「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」と言われています。
祈り
天の父なる神様、あなたが安息日をお定めになったのは、一週間というサイクルで1日を休み、その日には神を礼拝し、自分自身を振り返り、神と共に生きるという生活に生きるためでした。ところがファリサイ人や律法学者たちは、安息日の教えを曲解し、規則によってがんじがらめになってしまうような有様を生み出してしまっていたのでした。このような律法主義に陥ることなく、自由にあなたの御心のうちを歩み続けることが出来ますように。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。