6:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。

 

ここに言われている師弟関係は、この世における一般的な師弟関係のことを言っているのではありません。ここに言われている「師」とは、イエス・キリストのことであり、「弟子」とは、イエス・キリストを救い主と信じて従っていこうとする人たちのことです。

 

この関係においては、決して弟子は師にまさるものではありません。「だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」というのは、人間の努力や修行によってそれに到達できるということではありません。

 

エフェソの手紙を見ると、「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:13~15)と言われています。

 

このように成長していくことが出来るのは、人間の努力によってではなく、神の恵みによって、聖霊の導きによって出来ることだと言われているのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、私たちのまことの師である方を仰ぎつつ、この方に聞き従うことが出来ますように。あくまでも自分が師になるのではなく、私はこの方の弟子であるということを見失うことがありませんように。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。