つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。フィリピ人への手紙1:29
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。

かっての預言者たちも、キリストの弟子たちも、キリスト御自身も、神を信じ神に従うが故の苦しみを経験いたしました。パウロは、こうした苦しみは、恵みとして与えられているものだと述べています。

 

詩編73編には、苦しみを経験しない人のことが次のように記されています。「神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。

73:4 死ぬまで彼らは苦しみを知らず/からだも肥えている。

73:5 だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。

73:6 傲慢は首飾りとなり/不法は衣となって彼らを包む。

73:7 目は脂肪の中から見まわし/心には悪だくみが溢れる。」
心に悪巧みを持つ人は死ぬまで苦しみを知らないと言われています。

 

ロスチャイルド家のような富裕層の人たちは、桁違いのお金を持ち、豪邸に住み、何不自由なく暮らしているように思われますが、かつては貴族と呼ばれていた人たちも、代々に私たちってそのような暮らしを謳歌してきたともいえるでしょう。彼らは聖書が言うような苦しみを経験していないからこそ、神の恵みからは離れていると言えるのかもしれません。

 

逆に、同じ詩編の中には次のような言葉があります。

「119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

119:73 あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。

119:74 あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。

119:75 主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。

119:76 どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。

119:77 私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。あなたのみおしえが私の喜びだからです。」(新改訳)

 

この人は苦しみにあったことによって、神の言葉を聞き、神との交わりへと導かれていったのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、苦しみや試練は辛いものですが、あなたはそれを恵みとして与えてくださることを知りました。どうか、あなたの深い御心を知り、御心にお応えすることができますように聖霊を持ってお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。