では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。ローマ11:1~5

すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。(新改訳)

 

前回は神が背信の民に対しても手を差し伸べられたことが記されていました。それに続いて、「神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。」ということが記されていきます。旧約聖書に出てくる預言者エリヤは、バアルの預言者たちに対して戦い、勝利を収めました。

 

しかし、その後王妃であるイゼベルが自分の命を狙っていることを知ると逃げ出し、絶望的な思いに落ち込んでしまうのです。エリヤは、自分のように主に仕える預言者は自分ひとりしかいないと考えていましたが、神は、「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と言われました。

 

「7千人」というのは大まかな数字だと思われますが、非常に多くの人を残しているということを表しています。私たちも、この国で信仰を持って歩もうとする時、孤独感を感じることがあるかもしれません。日本においてはクリスチャンは非常に少ない。私の職場にも、地域にも、学校にも、神を信じて生きる人はとても少ない。エリヤのように自分ひとりしかいないという思いを抱くようなこともあるかもしれません。

 

しかし、少なくとも神は、あなたとともにいてくださいます。そしてあなたに必要なもののみならず、必要な出会いをも与えてくださいます。エリヤは、華々しい勝利を挙げた時、神に心を向けるよりはその心が神を離れてしまったようです。そのために神に信頼するよりは、人を恐れる思いが心を支配するようになりました。

 

1列王記19章には次のように言われています。「エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。・・・しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」」(1列王記19:14~18)

 

神が残された千人は、イスラエルにおいては目立たない存在だったと思われます。しかし、その人に使命を与え、バアルにひざまずかない同志を与えていてくださるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、預言者エリアをお導き下さったように、私たちにもみことばを与え、信仰を培い、あなたの恵みのうちにお導きくださることを感謝いたします。

残りの民として、主にあって歩み続けることが出来ますようにお導きください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。