わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。ローマ1:16

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(新改訳)

 

当時、迫害を受けるということもあってキリスト者になることを恥と考える人たちもいたようですが、パウロは恥と思うどころか、むしろ誇りだと思っています。なぜなら、福音は救いを得させる神の力だからです。

 

「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」と言われていますが、この言い方は、私たちが読んでいる新約聖書が古い契約から新しい契約への移行期に書かれたことを思い起こさせるものです。主イエス・キリストは紀元30年頃に十字架につけられ、復活し、天に昇り、神の右に座して王の王としての栄光をお受けになりました。しかし、ユダヤ教の神殿はまだ建っていたし、旧約のモーセの時代からイスラエルに与えられた神殿制度は、紀元30年から紀元70年まで続いていました。

 

救いという時、政治的なことについても経済的なことについても、健康のことも、この世の中での助けもすべてのことが含まれています。しかし、完全な意味での救いということを考えるならば、最終的には、経済的な救いや政治的な救いなどは、身体の救いとともに、新しいものに変えられなければなりません。新しい社会、新しい王、新しい都に住む必要があります。

 

ヨハネの黙示録21章には次のように記されています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」聖書が約束しているものは、ここに記されたような完全な救いに他なりません。

 

真実の救いに与るためには、公害のない、税金を課せられることのない所に自分の永遠の住まいを持たなければなりません。命の源なる神の家に迎えられることだといっても良いでしょう。それは、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」という世界です。ですから、クリスチャンの最終的な救いは復活にあるということができます。その完全な救いは、主イエス・キリストを通して私たちに与えられているのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、クリスマスを迎え、イエス・キリストの誕生を覚えつつ、みことばを聞き、祈るひとときを与えられますことを感謝いたします。

私たちは、罪の内にあり、死の力に支配されていたものですが、あなたが遣わしてくださった御子キリストによって、あの十字架の血潮を流して私たちの罪を贖ってくださったおかげで、罪を赦され、救われたものとされていることを感謝いたします。あなたは、私たちの思いを超えて、確かな救いをもたらしてくださいます。そしてあなたの子供として迎えてくださり、あなたの家に迎えてくださいます。ありがとうございます。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。