アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
創世12章8節
アブラム(後のアブラハム)の生涯は、神の前に祭壇を築いて、神への礼拝によってその歩みを進めていった生涯であったといえます。ローマ書12章には、「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(12:1)と言われています。
礼拝とは、自分自身を神に喜ばれる者として捧げることであるというのです。これは、礼拝と生活は不可欠なものであることを表しています。礼拝とは、日曜日のある時間に教会でささげておしまい。というものではないということです。それは、神から与えられた最善のものを、神にお返しすることでもあります。
ベテルは神との交わりを意味し、アイはこの世を意味しています。このベテルとアイの間に、アブラハムは天幕を張りました。アブラハムは、この世にあって生活する中で、神との交わりを重視しました。それなしには生きていくことができない事を知っていたからです。その生活は、自分のためではなく「神に喜ばれる」と言われているように、神のための働き、神の栄光を現わすための働きとして彼は自分の生涯を主に捧げたのです。
クリスチャンは、この世に召されたものです。この罪の世にあって、神の御心を行なうように、世の光として輝くように召されたものです。しかし、アブラハムもそうであった様に、神のお導きがなければ、このような働きをなし得ない者であることは私たち自身を振り返れば分かります。だからこそ神との交わりこそが私たちの生活の柱となるのです。
祈り
天の父なる神様、アブラハムが主の前にしばしば祭壇を築いて礼拝を捧げたように、私たちもあなたとの深い交わりを持ち続けるとともに、あなたが喜ばれる働きをしていくことができますように、御霊によってお導きください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。