約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。ローマ9:9~14
約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神の選びということが記されています。「約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。」神はアブラハムに、「あなたの子孫によって人類が祝福を与えられるようになる」と言われましたが、その時アブラハムも妻のサラもすでに高齢になっており、神の約束のように子供が生まれるということは、常識的には考えられない状況にありました。
それで、アブラハムは、サラとの間に子供をもうけるのではなく、奴隷女との間に子供をもうけることを考えて、イシマエルという子供が与えられました。しかし、神の御意思はあくまでもアブラハムとサラとの間に子供が生まれるという約束を与えられたのです。
そして、やがてその約束の通りにアブラハムとサラとの間にイサクという子供が与えられました。人間的にみれば不可能と思われることも神はその約束の通りに実現してくださることをこの歴史は物語っているのです。神の祝福はアブラハムからイサクへと受け継がれていきました。
そしてイサクには、兄のエサウと弟のヤコブが生まれますが、神はその選びによって、兄のほうにではなく、弟のヤコブをその祝福を受け継ぐものとしてくださいました。「それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。」
ここには、神は、その救いの約束を必ず果たしてくださる方であること、またその御業をこの私たちの歴史の中で確かに実現してくださっていること、そして主権的に救いの御業を実現してくださることが聖書によって明らかに示されています。この世界には、サタンの強大な力があり、多くの人々や権力者たちもそれに従っているように思われます。またイスラエルの民は神に従い得ないことが多いのですが、罪ある者の内に神が働いて、御霊に導かれて、恵みのうちに歩むことが出来るように、今日も導いていてくださいます。
祈り
天の父なる神様、あなたのお導きによって、イスラエルを通して、多くの人々の働きを用いて、あなたの救いの御業をこの歴史の中に実現してくださっていることを覚えて感謝いたします。
アブラハム、イサク、ヤコブを導き、時満ちて主イエスをお遣わし下さった神がお一人お一人の上に祝福を持って臨んで下さいますように祈ります。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。