それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。ローマ1:26~28

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。(新改訳)

 

ここには、「引き渡された」という表現がありますが、これは積極的にそうなさったというよりは、「なすがままにされた」と理解した方が正確だと思います。

罪を犯した後のアダムとエバは、自分の罪を認め、告白するのではなく、自分の罪の責任を他者になすりつけようとしました。そのように、罪人は自分が選んだことの結果が悪い場合には、他の者のせいにする傾向があるのです。「これをしてしまったのはあの人のせいだ」「あの人がこれをしなければ、私はこの道を選ばなかったのだ」と言って、正直に自分の罪を認め、責任をとろうとしないのです。

 

罪に堕落してしまった人に対して、前節では神の怒りが下されると言われていましたが、神の怒りは、彼らがなすがままに引き渡されるということに現わされています。そのようにして、罪を重ねる人は、それが常態化し、それが当たり前のようになり、罪に対する感覚も麻痺してしまうのです。

 

ここには、同性愛の罪が指摘されています。男性と女性が父母を離れて一つになるという結婚の奥義が創世記2章に記されています。

「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:21~24)

 

しかし、神が定められた結婚を不自然なものにしてしまう人もあるのです。中には「性同一性障害」という障碍をもっている人があることも、今日では認められていますから、こうした方々への理解と配慮が必要なことも考えさせられますが、レビ記にも「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。」(レビ記18:22)と言われているように、性の乱れに対して、聖くあるように勧められています。

 

祈り

 

天の父なる神様、あなたの御名が聖であるように、あなたは私たちにも聖であるようにと求めておられます。私たちは自分が神とともに生きる存在であることや、あなたによって生かされていることを忘れて、自分勝手に物事を考えて行動することもありますが、そんなわたしを、あなたの御手を持ってつなぎとめてくださり、あなたとともに生きるものとしてくださることを感謝いたします。

主にあって生きる者とならせてください。

イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。