5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

 

「義に飢え渇く人々は、幸いである」といわれています。ここで言われている「義」とは正しさという事ですが、これは何よりも木アミ様との関係における正しさという事です。

 

前回も記しましたように、「義」ということについても、ここでイエス様が幸いであると言われているのは、その人が生まれながらにもっている気質ではなく、聖霊によって与えられる新しい人としての気質であるということです。

 

私たち人間は自分の力で神様の御言葉を信じ、従うという正しい関係に生きることができるのでしょうか?いいえ、できません。かえって日ごとに罪を増し加えているようなものです。律法が与えられていても、私たちはそれを守ることが出来ないのです。

 

そのような私たちのために、神はイエス・キリストをお遣わしになりました。ローマ書3章21節以下には次のように言われています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ書3:21~24)

 

また、詩編42編の初めには、「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」(詩編42:2~3)と言われています。このように主を慕い求める者こそが幸いな人なのです。その人たちは満たされるからです。

 

祈り

 

天の父なる神様、闇が世界を覆っているようなこの世界にありますが、このような時こそ義に飢え乾くものとならせてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。