そればかりでなく、苦難をも誇りとします。ローマ5:3

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。(新改訳)

 

艱難を誇りとする、艱難を喜ぶ、これは私たちの普通の感覚ではありえないことではないでしょうか。苦しみには逢いたくないし、そうしたいやなことはできれば避けていきたいと多くの人は考えるのではないでしょうか。

 

しかし、パウロは、艱難を喜ぶと言いました、また、イエス・キリストは次のように言われました。「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10~12)

 

パウロ自身、非常に多くの苦しみを経験していますが、それを喜んでいるというのです。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(2コリント11:23~27)

 

パウロは、悪いことをしたためにこのような難に逢ったのではなく、ただイエス・キリストの福音を宣べ伝えたという理由でこのような難にあったのです。

しかも彼はそのような難にあってもそれを喜んでいるのです。イエス様は、かっての預言者たちもそのように艱難を経験したのだと言われています。

 

聖書を読むと、「預言者」とは、神に従った人たちであるということが分かりますが、聖書には、「偽りの預言者」たちもいたことが記されています。偽りの預言者たちの特徴は、時の権力者たちにおもねり、口先では人の心にあたりのよいことを語るが、神の御心からは離れている人たちです。それに対して「預言者」たちは神の言葉をそのままに語り、そのために多くの人々から迫害されたのです。イスラエルにおいて、「預言者」とは、苦しみを受ける人というイメージがあります。イエス様も預言者と同じように神の言葉をそのまま語り、神の御心を行なったために多くの艱難を受けたのです。

 

これは、患難そのものを喜んでいるというよりも、患難の中にいても喜んでいるという意味です。ギリシャ語では文字通りには「患難の中でも誇っています」となっています。主イエスは、ヨハネの福音書16:33において次のように語りました。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 

ここで、「平和」と訳されている言葉は、「心の平安」ということでもあります。イエス・キリストにつながって、キリストとともに歩む者は、艱難の中にあっても希望と喜びを持って生きることができるのです。

 

祈り

 

天の父なる神様、主イエスが言われたように私たちの人生には艱難があります。しかし、あなたはイエス・キリストにおいてすでに罪を赦され、神の義をいただき、聖霊において私たちを導き、神の国の民として生きるように私たちに救いの恵みを与えてくださいました。

私たちは、すでに信じて救いを得る者とされていることを感謝いたします。主にある復活の希望を持って艱難をも喜ぶことができる信仰を増し加えてください。イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。