ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。ローマ9:19~21
すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。(新改訳)
私たちは、神がどのようなお方であり、人間がどのような存在であるのか。聖書によって、また聖霊に導かれることなしに知ることが出来ません。このことがよく分からない時、「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」という思いが生まれてきます。
私たちは神によって創造され、神によって生きるために必要なあらゆるものを無償で与えられています。これは例えば、親が子供に、無償で生活に必要なものをすべて与え、愛情を込めて子供のために出来ることを尽くしているのに、子供のほうは親のことには無関心で、感謝もせず、自分勝手に生活しているようなものです。神によって生かされていることも知らず、たくさんの恵みをいただいていることに感謝することもなく、神が私に、どんな思いを持って何をしてくださっているのか知らないでいるのです。神の裁きに対して疑いの念を抱く人に対して、パウロは述べています。
「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」「人よ」と言っていますが、このギリシャ語 “anthropos” は、「あなたはただの人に過ぎない」という意味です。あなたは神の前には「自分が人間に過ぎないということを認識しなさい」と言っているのです。
自分が何者なのかを悟りなさい。また、神がどなたなのかを悟りなさいとパウロは言うのです。人間には自由な意思が与えられているのですからその思いと行いに関して責任があります。そして、それらすべてを裁かれ、正義を守られる神がおられることを忘れてはなりません。
ルカによる福音書12章には次のように記されています。「「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカ12:4~5)
陶器師は、自分の好きなように、好きな材料を使って湯飲みでも茶碗でも作ることができます。そのように、神が私たちを造ったので、当然すべての事柄を決める権利は創造主である神にあるのです。神は神であられるので、神が私にこのような能力しか与えなかったなら、私はそれに対して文句は言えません。否、寧ろ、感謝しかないのです。
「もっと能力が欲しかった。別の時代に生まれたかった。別の名前がほしかった。日本人じゃなくて、アフリカ人に生まれればよかった。もっと足が長かったらいいのに」などなど、何でもかんでも罪人は不平を言うことができます。しかし、それを言う権利があるのでしょうか。むしろ自分に与えられたものを見て、感謝することです。ヘレン・ケラーは、三重苦という障碍を持ちましたが、後に聖書によって神を知るようになり、自分自身は神から与えられた素晴らしい存在であることを自覚するようになって、多くの人々に勇気と希望を与える人になりました。神が自分に与えられた恵みを悟って感謝するのが正しい応答であるといえます。
祈り
天の父なる神様、あなたによって造られたこの体を思うとき、その素晴らしい創造に御名をたたえます。この宇宙を思うとき、微生物の世界を思うとき、これは決して偶然にできたものではなくあなたの恵みによって創造され、今も育まれていることを感謝いたします。
感謝と喜びを持って日々を過ごすことができますようにお守りください。
イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。